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北岡泰典公式サイトはここで参照できます

Creativity Enhancement Ltd.
                          VOL.5 2008.4.19


           『北岡泰典メ−ルマガジン』


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精神世界の求道者・変性意識の学際的研究家・国内NLP第一人者である著者が、
スピリチュアルな世界・カウンターカルチャー等について縦横無尽に語ります。
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『私の師匠について』

皆さん、こんにちは。変性意識の学際的研究家・NLP ファシリテータの北岡泰典です。

本メルマガの前号の発行からだいぶ時間が経ってしまいました。お待たせしました。

今号では、私の師匠について語ってみます。

私の師匠は、インド人導師のバグワン・シュリ・ラジニーシです。この方は、現在、「和尚」の名前で全世界に知られていますが、私が最後に 1985 年にアメリカ・オレゴン州で会った時は、バグワンの名前で知られていたので、この紙面では「バグワン」の名前を使います。

(この私のスタンスは、最近の和尚の弟子 (通常、「世捨て人」を意味する「サニヤシン」または「ネオサニヤシン」と呼ばれています)、特にバグワンの死後弟子入りしたサニヤシンと私自身が一定の距離を置いているという私の「自己主張」と取っていただいてけっこうです。さらに、私は、1983 年と 1985 年に「ラジニーシプーラム」と呼ばれていたオレゴン州のコミューンでバグワンと会っていますが、その後再活動して、そこで最後に名前を和尚に変えたインド自体に私は自身まだ一度も行ったことのない事実もお伝えしておく必要があるかと思います。すなわち、私は、自分の師匠を「オレゴン時代のバグワン」としてしか知りません。)

バグワンは、極端に賛否両論に分かれる評価を受けた現代インドの導師 (グル) です。

Wikipedia で検索すると、「和尚」については以下のように記載されています。(部分引用です。)

「オショウ(和尚ラジニーシ、バグワン・シュリ・ラジニーシ、Osho あるいは Rajneesh Chandra Mohan, 1931年12月11日 - 1990年1月19日) は、インド生まれの神秘家。漢字で「和尚」と表記される事がある。オショウだけに、師匠を持たない。『瞑想の道』と『愛の道』について教えた。

日本の禅を含め世界中の宗教や、過去の悟りを得た人物を素材に語り、一般的な『宗教』を組織宗教と呼び、彼の語る純粋な宗教的立場を『宗教性』と呼び区別した。

また、自らの教えから統一された教義をまとめたり、組織宗教をつくり出すのは不可能となるような布石をしてあると言う。ある事をある状況の元で言ったら、必ず別の状況で反対の事を言うようにしていたとの事で、実際話された内容を調べるとそのようになっている。老子は『真実は語る事は出来ない』と言い残したが、同様の事をオショウは相反する発言をすることで表現したと言えよう。

実際に組織的なものはあくまで実際的な運営に関わる事にのみ使われ、精神的なことに関してはあくまで個人を主体に行われた。オショウは弟子を受け入れたが、弟子たちの間には何の上下関係も組織的なつながりもない。あくまで個人とオショウとのつながりである。肉体を離れる(=団体独自の死の表現)数ヵ月前にインナーサークルと呼ばれる21人の弟子により構成される委員会を作ったが、これはあくまで道場などの実際的な運営に関わる決定をするためにあり、精神的な指導には関係しない事を決めている。

肉体を離れた現在も弟子入りを受け入れているが、それもあくまで肉体を持たないオショウの存在と個人との関係に過ぎない。

活動中は朝と晩に2度講話を行い、それが本にまとめられて出版されている。一週間から3ヵ月に一冊の割合で本がつくられ最終的に300冊を超える本を残している。(中略)

1974年、インド・マハラシュトラ州・プーナ(プネー)市コレガオンパークにアシュラム(瞑想道場)を開き、旅行を止めた。この頃よりインド国外において良く知られるようになり、ヨーロッパ・アメリカを中心にした訪問者の数が増えてくる。

瞑想だけではなく、瞑想の準備段階として心理セラピーのグループなど西洋的な手法を盛んに採り入れはじめる。理由は瞑想に近寄っていく過程において、瞑想実践者のストレスや心理的問題などが表面化した時の影響が現代社会で生活を営んでいる人々で起きた場合に自発的訓練継続不能に至るケースが多数見られたためと言われている。

世界中から心理セラピーなどの各種のセラピーや肉体のヒーリングの技術を持った人々が集まりはじめセラピーセンターとして良く知られるようになる。またこのころから日本でも一部で知られるようになり、1976年に最初の講話の翻訳である『存在の詩』がめるくまーる社より出版される。

1981年5月、インドを離れアメリカへ移動する。理由は悪化した背中の痛みを治療するためと言われているが、そのままアメリカに留まりオレゴン州アンテローペ村の近くでコミューンの建設をはじめる。

1985年10月 (*)、弟子の条件から『オレンジ色の服装」と『マラ(数珠と写真のネックレス)』を廃止。理由はアメリカ政府の弾圧から弟子を守るためと言われる。一方現地オレゴンでは、住民への嫌がらせや暴力等により住民と対立していた、という報道もあり社会問題になった(のちに日本でも一連のテレビや、ニュースで話題を振り撒いたが、日本での団体関係者からの抗議により報道は正しくなかったと謝罪する場面もあった)。外見から弟子を見分ける事は出来なくなる。結果的に弟子の条件は

一日一時間の瞑想を行う事

ことだけになる。あくまでこれは自己管理に任されており他人により管理される事はまったくない。

1985年12月 (*) アメリカ政府とのトラブルによりアメリカを離れ世界ツアーをはじめる。この間も講話は続けられた。

1986年、インドに戻りボンベイに居を構え朝晩の講話をはじめる。数ヵ月後、以前のプーナのアシュラムに戻り以後肉体を離れるまでアシュラムに留まる。

1989年4月12日、最後の講話を行う。体調の不調が理由で以後公的な講話は行われていない。

この後、数ヵ月の公的な沈黙を得て、9月からただ弟子たちの前に来て静けさの中に留まる30分程の瞑想が、夜7時から彼が肉体を離れる2日前まで続けられた。

1990年1月19日インド時間5時頃、肉体を離れる。59才であった。肉体を離れるまでの1年程、原因が不明の肉体の異常に苦しんだ。オショウとその関係者はアメリカ政府により盛られた毒と放射線被曝が原因となったと主張している。後になって検出することが出来ないがタリウムを摂取した時の症状を肉体は示していたとの発表。(中略)

遺灰はアシュラム内のサマディに安置され瞑想のために公開されている。

悟りを伝える公式の後継者は残さなかった。現在もアシュラムはオショウ・コミューン(オショウ・瞑想リゾート)として続けられ世界中からの訪問者を受け入れている。」

(著者注: 上記の引用で、アスタリクス (*) 印がついた箇所等には、年月日の誤りがあるようです。)

私がインド人導師 (全般) について興味をもち始めたきっかけについては、本メルマガの第 2 号で、以下のように書きました。

「当時、[生まれ育った地方都市で高校生として] 私は、アングラ雑誌 (『ミュージック ライフ』だったと思います) を購読していて、確かニール ヤングのイラストが表紙を飾っていていた号で、リチャード アルパート (60 年代に LSD の実験後、ティモシー リアリーとともにハーバード大学を追放された心理学者。リアリーの『チベットの死者の書 - サイケデリック バージョン』の共著者で、後のラムダス) がインドの導師のもとに行ったとき、そのグルから『今あなたが隠し持っているものを知っているので、それを出すように』と言われ、このグルをテストするために密かに持参していた、通常の摂取量の 10 倍ほどの量の LSD の錠剤をグルに手渡したとき、このグルは、それをすべて摂取しても何の変化も示さなかった、といった掲載記事を読んだとき、私には将来インド人導師に弟子入りしたいという願望が生まれました。この願望は、後に、1983 年にアメリカ オレゴン州でのバグワン シュリ ラジニーシへの弟子入りという形で実現することになります。」

また、本メルマガの第 4 号では、私は、以下のように書きました。

「1960 年代初頭サンフランシスコのノース・ビーチに住み着いていたビートニックが世俗化を嫌ってヘイト・アシュベリーに集まり始め、1967 年の『サマー オブ ラブ』現象で、ヒッピー化の頂点を迎えます。彼らは、主に大麻や LSD 等の『幻覚剤』を通じて、既成概念を超えた『代替的な生き方』を模索し、『反体制』的なライフスタイルを提案しました。伝統的な制度に反発し、縛られた社会生活を否定し、ベトナム戦争に反対し、自然への回帰を志向し、東洋的宗教への関心を寄せました。ヒッピー運動のキーワードは、長髪、ロック、マリファナ、サイケデリック、反戦、自然食、禅、密教、瞑想、フリーセックス等でした。

この運動はまたたくまに世界に広がり、たとえば、英国ロンドン市ウェストエンドのカーナビー ストリートはロンドンのヒッピー文化のメッカになりました。ロンドン北部のカムデンタウンもヒッピーの拠点になりましたが、カムデンタウンは、現在は、むしろパンクのメッカになっています。

この背景を元に、ビートルズは、1967 年 6 月に彼らの最高傑作とされる『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』をリリースするわけですが、このアルバムは、ビートルズのメンバーの幻覚剤の経験に強く影響されています。たとえば、このアルバムの『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ』という曲の頭文字は『LSD』です。

当時、ジョージ ハリスンが超越瞑想のグル、マハリシ・マヘーシュ・ヨギに傾倒していて、ハリスンはマハリシの講話に参加するためにビートルズの他のメンバーとともにインドに赴きました。ポール・マッカートニーとジョン・レノンはマハリシの講話そのものが胡散臭いと思うようになり途中で帰国してしまいますが、私は、この事件がきっかけとなって、西洋のヒッピーが大挙して、東洋のグルを求めて、インド、カトマンズー、チベット等に押しかける流れを作り出した、と考えています。

ビートルズとマハリシの出会いがなければ、私が 1983 年にアメリカ オレゴンで弟子入りしたインド人の導師バグワン シュリ ラジニーシ (1990 年 1 月に死去したときの名前は『和尚』) のもとに 1960 年代後半から 1970 年代にかけて西洋人ヒッピーが数千人、数万人単位で弟子入りを求めて集まってくるということもなかったのではないか、と私は考えています。」

このような背景をもとに、私には、高校、予備校、大学時代を通じて、「綿々」と、「ロックミュージック → ヒッピー → カウンターカルチャー → ドラッグ → インド人導師 (「グル」) のもとでの精神世界的修行 → 悟り (最終解脱)」のという、西洋人ヒッピーがたどったのと同じ道筋をたどりたいという欲求をもち続けていました。

私が「特定」のインド人精神的導師として、バグワンの名前を知ったのは、1979 年、大学 4 年生のときに半年間自費留学したフランスから帰国した際、パリのシャルル・ドゴール空港の売店で買ったフランス語の雑誌に載っていた十数ページにおよぶ「バグワン・シュリ・ラジニーシ」カラーページ特集でした。当時、非常に興味深い導師だと思いました。

二度目にバグワンの名前に出会ったのは、自費留学の後留年していた大学 5 年生のときの、大学に向かう途中の地下鉄東西線の車上でした。確か高田馬場と早稲田駅の間で見た雑誌「女性自身」の吊革広告に「日本人女性 200 人、インド人セックス グル、バグワン・シュリ・ラジニーシのもとに走る!」という見出しがあり、私の目を引きました。

さっそく下宿のそばの本屋さんでこの「女性自身」を買って記事を読んでみました。要は、日本人記者 (男性だと記憶していますが、女性だったかもしれません)が当時のバグワンのインド プーナのコミューンに潜入ルポを試み、性的な解放 (フリーセックス) を試みる「タントラ グループ」と言われたセラピーに参加して、他に参加していた西洋人の大らかさにはついていけず、日本人としての自分の劣等感を味わされる羽目になったというような内容でした。

私自身、二度の施設体験時に「幼児性愛」に関連したトラウマ経験をもち、その後中学生活以降の「社会生活への適用」がままならなかったことには、以前の号のメルマガで言及していますが、高校時代は、自分を「母権主義者」と形容もするほどの「女権拡張論者」でした。

(つい最近、私が三十歳前後の若者二人に「ウーマン・リブ(Women's Liberation)」について言及したら、「それは何ですか? 食べ物のスペア リブの変形ですか?」と答えられ、驚愕以上の絶望感をもちました。

ウーマン・リブとは、「1960年代後半にアメリカで起こり、その後世界的に広がった女性解放運動のこと」 (Wikipedia) ですが、このいわゆる「フリーセックス」の指向性のある大きな思潮的運動は、ヒッピー文化およびカウンターカルチャーの「代名詞的」といっても誇張ではないほどの非常に重要な根幹的要素であるのにもかかわらず (個人的には、現在の欧米の十代の若者で、「ウーマン・リブ」の言葉を知らない人は皆無だと信じています)、60 年代、70 年代の国内のウーマン・リブ活動家 (これも、私にとっては「悪名高い」あの団塊の世代の人々です) が後世に対してその遺産についての知識と情報をちゃんと伝えてきていないのは、(いわゆる「思想統制」に近いという意味からしても) ほぼ犯罪に近い落ち度だと個人的には思えます。(というか、日本には歴史的に、ウーマン・リブ活動家も、ドラッグ解放論活動家同様、事実上存在しなかったことが、今私にはわかります。)

私は、昭和 31 年生まれですが、その二、三十年前 (第二次世界大戦前あるいは昭和初期) の日本の状況については、私の両親、祖父母が話をすることで、「ある程度」の歴史的知識と情報を私に伝えてきているので、現代西洋の一般社会の常識の根幹に位置しているウーマン・リブといった最重要概念さえも国内で団塊の世代が二、三十年後の現在の若者たちに伝えきれていないことは、まことに忌々しきことだと、私は個人的に思います。ニート族が何十万人単位で存在する現状に関しては、今、(1981 年から 20 年余り日本を離れていた) 私にはやっと充分合点がいきます。

ところで、西洋のウーマン・リブ運動に触発されて、国内でも「フリーセックス」の社会的風潮が徐々に育っていたときに、その「芽を一挙に完全に摘み取った」事件が 1971 年に起こった「大久保清連続女性殺害事件」だったと言われています。ベレー帽を被り、スポーツカーを乗りまわしながら、「絵のモデルになってくれませんか?」と片っ端から女性に声をかけ、結果的に 8 人の女性を殺害し、後に死刑になったこの大久保清事件を機に、世の親御さんたちがその娘さんに極度の警戒心をもつように諭すようになり、このことで、日本の「女性解放運動」は一気に終息したと考えられます。現代の日本文化を語る上で、極めて残念な事件だった、と私は考えています。)

こういう文化的背景をもっていた私が、上記の女性自身の記事を読んで、バグワンに強い興味をもったのは、当然の帰結でした。

三回目にバグワンの名前に触れたのは、1981 年で、何とサハラ砂漠 (アルジェリア) でした。当時私は、大学卒業直後、国内大手企業のフランス語通訳をしていましたが、日本人の女性通訳さんと話をしていたとき、なにげなくバグワンの名前を出したら、彼女に「ああ、その人の本なら、一冊、キャンプ マネージャの部屋の本棚にありますよ」と言われ、その部屋に飛んでいき、マネージャからその本を借りました。

それは、『マイウエイ 流れ行く白雲の道』という講話集 (バグワンの本はすべて講話集です。この本は現在絶版だと思われます) で、最初のページにあったバグワンの顔写真には、仰天しました。どの角度から見ても、私はバグワンに見つめられているような印象をもちました。

内容的には、プルーストの何千ページにもおよぶ『失われた過去を求めて』を原書で読めたようなそれまでの「左脳的」な私の頭全体が文字通りすべてぶっ飛んで、空中で粉々に分解してしまうほどの衝撃を受けました。

それまで、そのような内的世界を私にもたせてくれた本など読んだことはありませんでしたし、このような世界は真の意味でありえない、と思えました。そのときに経験したサハラ砂漠の広大さともシンクロしていたのかもしれませんが、私は即バグワンへの弟子入りを決めました。

その後、情報を集めてみると、当時バグワンはすでに母国インドを離れ (慢性の腰痛のためと言われていました)、アメリカ オレゴン州のコミューンに移住していたことがわかったので、その時点での「念願のインド行き」の可能性はなくなりました。

このとき、サハラ砂漠から直接オレゴンに向かうオプションを選択しないで、約半年間ヨーロッパ全土を放浪する旅に出ました。(私のサハラ滞在の目的は「資金稼ぎ」でした。当時、砂漠で仏語通訳をすると、新卒者でもかなりの額のお金を毎月貯めること可能でした。) これは、上述したように 60 年代に西洋人が踏んだ「ヒッピー → 精神世界」という轍を私も自分自身で実際に踏んでみたいと思ったからでした。

半年間のヨーロッパでの放浪の後、一時帰国して、日本で次の 8 ヶ月間の通訳仕事を探し、再度サハラ砂漠のど真ん中 (ザルザイチン) に行きました。私の CD-ROM 本の『Cyberbook』の中にある砂漠での写真や、最近私が活動している mixi にアップロードしている写真

http://member.img.mixi.jp/photo/member/14/36/741436_2657857776.jpg

は、このとき撮ったものです。

 

編集後記 1: 上記の mixi の写真リンクは現在壊れているようです。『Cyberbook』の中にある砂漠での写真は、以下の写真です。

写真ページ: http://www.creativity.co.uk/creativity/jp/cyberbook/sahara1.jpg

 

この砂漠滞在でも再度お金を貯め、1983 年春に、念願のオレゴン州のバグワンのコミューンに行き、その年の秋まで半年間滞在しました。

「ラジニーシプーラム」と呼ばれたこのコミューンは、オレゴン州の山地の「砂漠」地帯の中に裕福なサニヤシンが所有していた土地を開拓して作り上げた「サニヤシン・オンリー」の町でした。実際、ショッピングモールのショップ関係者も、カジノ店員も、医療関係者も、郵便局員も、教員も、警備関係者もすべてサニヤシンでした。当時のサニヤシンには、「バグワンからもらったサニヤス名を使うこと」、「赤い服を着ること」、「バグワンの写真と数珠のついたペンダントである『マラ』を身につけること」の 3 つの「戒律」が課せられていたので、町中赤い服を着た人々だけ (通常の住民数は 1 万数千人で、夏季のフェスティバルの時期には、全世界からサニヤシンが集まったので、人口は数万人以上に膨れ上がりました) が歩き回っているのは、実に壮景でした。

このコミューンは、日本で言えば、たとえば昔の高野山のような、精神世界の求道者が集まって集団修行する「サンガ」 (「共同体」意味するサンスクリット語) でした。

当時、バグワンは 1981 年にインドを離れる前に「ガチョウは外だ!」という禅考案についての講話を最後に「沈黙」に入っていた時期で、毎日 14 時頃、バグワンは、(毎日違う) ロールスロイスを自ら運転しながら砂漠の土っぽい道を通り、その道の脇にコミューン全体のサニヤシンが一列に並んで待ち、通り過ぎるバグワンを合掌して出迎えることが毎日の日課となっていました。これがコミューン住人がバグワンと面と向かえる唯一の機会でした。

コミューン住人には、(いわゆる日本語で言う「出家者」のような) 無償で滞在し、そのかわりに共同体が必要としている業務を奉仕するサニヤシンと (「在家者」のような) 一日の滞在費 (確か、100 ドルだったと記憶しています) を払ってコミューンに住み、「修行」するサニヤシンがいました。

私は、もちろん、「在家者」タイプの滞在者でしたが、当時私はセラピーに非常に興味をもっていたので、RIMU (ラジニーシ国際瞑想大学) で、米人スワミ・サントッシュ (「スワミ」は「Mr」という意味で、「マー」は「Mis」という意味です) が指導した「デヒプノセラピー (脱催眠療法)」という 3 ヶ月間の心理療法初級コースを受けました。(RIMU でのセラピー ワークやコース参加には、コミューン滞在費に加えて追加のワーク参加費を払う必要がありました。) これは、アラン ウォッツの『心理療法東と西−道の遊び』風の「東洋の瞑想法と西洋のセラピーの統合」を図ろうとしたバグワンの試みを具現化したものでした。

この心理療法は、ありとあらゆる現代心理療法の学派と東洋の瞑想テクニックの「折衷版」でした。カバーされた学派とテクニックには、ゲシュタルト療法、交流分析 (TA)、ヒューマニスティック・サイコロジー、エンカウンタ、プライマル、サイコシンセシス、エスト、リバーシング、誘導ファンタジー、催眠療法、前世療法、ペンデュラム、ロルフィング (ライヒ式マッサージ)、リバランシング、アリカ エクササイズ、アイソレーション タンク、プラーナヤマ、禅式瞑想、ヴィパサナ瞑想、チャクラ オープニング、インテンシブ エンライトンメント、その他が含まれていました。

その他の日課としては、「ラジニーシ マンディア」と呼ばれる、200m x 500m くらいの広さの吹き抜け式の「道場」で、朝 7 時から 1 時間のダイナミック瞑想と夕方 6 時からのクンダリーニ瞑想を行うことが義務となっていました。これらの瞑想は、バグワンが考案した踊る瞑想です。(ちなみに、このばかでかい道場がまだ今でも現存していることを、最近 Google Map 等で発見しました。)

これらの瞑想とセラピー ワーク時間以外は「自由時間」で、ショッピング モールで買い物をしたり、レストランで食事をしたり、カジノで賭けをしたり、「普通の生活」をすることができました。宿泊場所は、テントもしくは山小屋で、共同カフェテリアでは、セルフサービス式の朝昼夕食を食べることができました。コミューン内では、すべて菜食主義でしたが、喫煙、飲酒は許されていました。

当時、コミューン内では「フリーセックス」が許されて (黙認されて?) いましたが、「エイズ検査」を受けてからコミューンに来ることが推奨されていました。コミューンに入る際の「チェックポイント」では、麻薬検査が行われていたので、コミューン内は「ドラッグ完全禁止地区」でした。

交通手段は、米国でよく見かける黄色い通学バスが主で、これに乗って、宿舎、道場、カフェテリア、RIMU 間を移動しました。コミューン内にはプロペラ飛行機用の飛行場まであり、私自身、何度か飛行機でコミューン入りしました。

もちろん、滞在費とセラピー参加費がかさむので、半年程度しか滞在できませんでしたが、私には、二千年前の仏教徒が修行していたサンガにいるように思える体験でしたし、確かに、バグワンは、この地上で「ユートピア建設」を目論んでいるな、という印象をもちました。

この年の 10 月初めに念願の弟子入りを果たしました。当時、バグワンは直接イニシエーションを行っていなかったので、かわりに、一番弟子と言われていたスワミ・ティアサから、サニヤス名の記された「弟子認定書」と「マラ」をもらい、晴れてサニヤシンになりました。私の弟子名は Swami Prabodh Guhen (「プラボード」は「意識」、「グーヘン」は「深遠」を意味します) です。

その後、帰国して、約 1 年間日本に滞在し、京都のサニヤシンハウス等に住みながら、バグワンの弟子としての瞑想等の修行を続け、同時に、次のサハラ砂漠での通訳仕事を探しました。このとき、東京のサニヤシン センターで、その後結婚した英国と日本のハーフのサニヤシンとも知り合いました。

84 年にはラジニーシプーラムに行きませんでしたが、この年、数ヶ月間サハラ砂漠の仕事に行った後帰国し、もう一度四度目で最後のサハラ滞在を繰り返した後、85 年 6 月に英国に行き、そこで上記のサニヤシンと結婚しました。私と彼女は「ハネムーン」として、その夏ラジニーシプーラムに行き、そこで私は「デヒプノセラピー」上級コースを 4 ヶ月間 (通算で計7 ヶ月間) 受けました。

この年は、「ラジニーシプーラム崩壊」の年でした。7 月に、突然バグワンは「沈黙」を止め、道場でサニヤシン向けに毎朝 2 時間程度の講話を再開しました。その過程の中で、バグワンの女性秘書とその一味が一連の殺人、横領等の犯罪行為を企んでいたことが判明し、そのことを口実にレーガン政権は、「赤い集団の教祖」であるバグワンを逮捕し、国外追放することを決定しました。

バグワンが実際に逮捕され、国外追放されたのは、私が 85 年秋にコミューンを離れた後でしたが、逮捕持に、留置所の枕元に置かれていた放射線物質がバグワンの死期を早めたと言われています。バグワンは、その後いろいろな国から入国拒否を受けながら「ワールド ツワー」に出て、最終的にはインドに戻り、プーナのコミューンを再開し、そこで 90 年 1 月に亡くなっています。私は、オレゴン以降のバグワンに会うことはありませんでした。

ちなみに、このコミューン崩壊時に、「悟った人がなぜその秘書の企みを見破れなかったのか?」という理由でバグワンから離れていき、サニヤスを放棄する弟子も多くいたようですが、私にとっては、「自分の師匠が自分をどれだけ変えてくれたか?」だけが唯一の判断基準だったので、コミューンの誰が何をどうするか、はまったく問題にはなりませんでした。問題は、唯一私とバグワンとの個人的関係だけでした。事実、初めてコミューンに入ったとき気づいた「既得権取得者」の「官僚主義」には辟易しましたし、私が、素晴らしい瞑想入門書と思ったバグワン著の『秘教の心理学』を仮翻訳して、その草稿を当時翻訳責任者だった日本人マーに見せましたが、「スタイルが違う」と一蹴されました (この本は、その後別の翻訳者が翻訳出版しています)。 私の弟子入りに関しても、申請後「まだ機が早い」ということで、「管理団体」から数ヶ月待ったをかけられました。

このことに関しては、金字塔的な講話「ガチョウは外だ!」で、バグワンは「私のしゃべることは常に矛盾だらけなので、そこから首尾一貫した教義など作れるはずがない。世の中には馬鹿な人々がたくさんいて、私の死後も、馬鹿な弟子たちが私のしゃべったことをもとにして『宗教団体』を作るだろうが、その団体と私とはいっさい関係ないことを今から心しておきなさい」 (逐語引用ではありません) と述べています。

事実、mixi の「和尚コミュニティ」を見てみると、上記の Wikipedia の引用にある、バグワンが生前作った「インナーサークルと呼ばれる21人の弟子により構成される委員会」は、最近も「職権乱用」のようなことをしているようです。

なお、同じく、mixi の和尚コミュニティでは、最近、「ラジニーシプーラムをジェット機で離脱したOSHOの判断が少しでも遅れていたら、ランチのサニヤスレッドのローブが州兵の突入によって血の海に染まっていた可能性がとても高かったこともわかっている」という投稿メッセージがあったことも注目を引きます。

ということで、私は、1985 年の 6 月から 9 月までラジニーシプーラムに滞在し、4 ヶ月間の「デヒプノセラピー」上級コースを受けましたが、そこでは、私は、上述したように、二千年前の仏教徒が修行していたサンガにいるように思える体験をしていましたが、コース参加者の一人のドイツ人スワミが、あるとき私に近づいてきて、「Guhen、我々がここでやっていることは、NLP と呼ばれる新たに生まれたアメリカの心理学と比べると一種の幼稚園ゲームにすぎないですよです」とつぶやきましたが、正直、彼を理解できませんでしたし、これだけお金と時間を投資している私はむしろ腹が立ちました。

しかしながら、その三年後の 1988 年に、私が英国でジョン・グリンダー氏の NLP を知った後、私はそのスワミとまったく意見をともにするようになりました。NLP が革命的な一式の心理的ツールであることがわかったのです。

もう一点だけ私のコミューン体験について語ると、1985 年の滞在時に、ある夕方、道場で「クンダリーニ瞑想」で踊っていると、突然、自分の体が文字通り「宇宙遊泳」し始めて、まったくの「至福」に包まれました。どうもこのときクンダリーニ エネルギーが全開したようで、このことが私の妄想でなかったことは、道場の脇の靴置き場で、コース参加者の女性三人と「ハギング」 (ハギングは、コミューン全体で常にいたるところで起こっていました) したとき、四人とも同時に「昇天」したことで確認できました。翌日、コースの課外授業 (カルマヨガの修行でした) として山の中で、カフェテリアに出荷するホウレン草を摘んでいたとき、30 メートル先からドイツ人マーが突然私に近づいてきて、このときもハギングした二人は昇天しました。しかしながら、この「ナチュラルハイ」の状態は、二、三週間程度しか続かず、おまけに、その後何度クンダリーニ瞑想をして、同じ瞑想ステージで同じ経験をもつことを期待しても、その体験は二度と起こりませんでした。

(実は、私が目隠しをしてコミューンの道場でクンダリーニ瞑想を踊っている写真が市場に存在します。これは、バグワンの「This Very Place the Lotus Paradise, 1978-1984: A Photobiography of Bhagwan Shree Rajneesh and His Work」という写真集伝記本の中に収録されています。最近、現在絶版のこの本を入手しようとしたのですが、レア本で、かつ 4,500(!) ドルするようで、まだ購入できていません。)

 

編集後記 2: 実は、昨年、この写真集を、オランダからかなり高価なレア古本としての購入しました。以下に「クンダリーニ瞑想」中の私の写真を掲載します (写真集の表紙と、この瞑想が行われていた吹き抜けのラジニーシマンディア大道場 (米国オレゴン州) の写真も掲載します)。

写真ページ:
http://www.creativity.co.uk/creativity/jp/magazine/images/rajneeshpuram.jpg

 

このコミューン体験の後、私は、英国ロンドン市に移り、妻と住み始めました。この結婚生活は二年後くらいに「破局」を迎え、別居するようになりました。(この女性とは、数年前に正式に離婚しました。) ですので、私は、別居してから NLP を知ったのであり、NLP で自分の結婚を救えなかったわけではありません。

英国では、ロンドン市内で二年間ある大手国内企業の子会社でサラリーマン生活を送りました。私の人生でサラリーマン生活は、このときだけです。このとき、英国の多くのサニヤシンと交わり、瞑想修行を続けました。ただ、世界中のサニヤシンには、どうもドラッグやセックスの方が悟りよりも重要と考えている人々が多いというのが私の印象でした。彼らは、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『欲望』(1966 年伊英合作) の中に出てくる「麻薬の巣窟」風の深夜パーティを毎日やっているような人々でした。

私は、悟りのためのツールとして、ドラッグやセックスを否定する者ではけっしてありませんが、私の印象では、ほとんどのサニヤシンはそれらに「耽溺」する「似非」求道者でした。

そういうわけで、1988 年に私がジョン・グリンダー氏とジュディス・ディロージャ女史がロンドンで開講したワークショップ、「個人的な天才のための必要条件」に参加したとき、「本当にやばいものを見た」と思い、人生が変わりました。ある意味では、この時点で、私は、私の「師匠を超える」道を歩み始めたといっても、あながち間違いではないかもしれません。

実は、上述の「第一期プーナ時代」の最後のバグワン講話「ガチョウは外だ!」にある禅公案の話が、私を蟻地獄から抜け出す道を示してくれたのでした。この話は、私のメルマガ「これが本物の NLP だ!」第 33 号で、以下のように紹介しています。

「精神世界では、『ガチョウは外だ!』という公案に関するストーリーがあります。

このストーリーによると、『リコウ』という弟子がその師の元に行き、公案を与えられました (この話は日本で起こったとされていますが、私は、『リコウ』の漢字名が確認できていません)。

その師は、リコウに、『この瓶の中にガチョウの雛がいる。それに餌をやり続けると、最後には大人のガチョウとなる。今、ガチョウは瓶の中で身動きできなくなる。ガチョウを救おうと思ったら瓶を壊す必要があり、瓶を救おうと思ったらガチョウを殺す必要がある。両方を救うためには、どうすればよいか?』と尋ねました。

リコウは、師の元を去り、この公案について考え抜き、1 週間後に師の元に戻り、答えを伝えます。師は、その答えを退け、『この公案についてもっと瞑想するがよい』と言いました。リコウは立ち去り、1 週間後に師の元に戻り、別の答えを伝えますが、その答えもまた退けられます。師は、弟子に公案についてさらに瞑想するように命令します。この過程が何度となく繰り返され、最後に、リコウは答えの可能性をすべて考え尽くします。そこで、弟子は、最終的に師の元に戻り、『師よ、私には他の答えはもう思い当たりません。どうか本当の答えを教えてください』と言います。

これを聞いた師は、突然高らかに両手を打ち、そして『リコウ! ガチョウは外だ!』と叫びました。

これでストーリーは終わりですが、ある精神世界の導師 [著者注: バグワンのことです] の解釈によると、リコウがすべての形而上学的思索をし尽くしたとき、その師は、単にその瞬間を利用して、両手を打って、その音で弟子に『実存的なショック』を与えることで、ありとあらゆる問題が発生しうる思考の中から目覚めさせて、問題がいっさい発生する可能性のない『今ここ』の瞬間に立ち戻させたことになります。

(もちろん、言うまでもなく、このストーリーは、NLP 的には『4Ti/4Te』の対比によって完全マッピングが可能です。)

私は、本メルマガの過去の号で何度か、自分は過去に精神的な蟻地獄に陥っていて、何とかそこから抜け出せた人間である、と述べてきていますが、『認知論的』にこの蟻地獄から脱出可能であると私に確信させたのは、実は、このストーリーでした。ただし、それを可能にさせる『実存的』な方法を見つけることは長年できずにいて、最終的にその現実的な方法論が NLP であることを発見したのは、この確信から数年経った後でした。」

実際、あれだけ親と社会に対して反抗的で、人生を悲観的に見ていた若者が、現在では、その親と和解するまでになり (実は、健常者である私の妹は今だに母親を許せないでいるようですが)、人生を完全に謳歌するようになるまでの変容が、私の人生で実際に起こったのですが、このことを可能にさせたのは、私の人生において、弟子になるときに「完全自己放棄 (トータル サレンダー)」を私に求め、私にそれをさしめたバグワンただ一人です。その意味で、数年前に私が母親に「いったい誰が私をここまで変えたと思いますか?」と尋ねたときの彼女の答えの「バグワン先生ですよ」は、すべてを言い表しています。

私には、バグワンから精神世界の修行の ABC から奥義まで、文字通りすべてのノウハウを教えていただいたという認識があります。上述の『秘教の心理学』等の教えは、私の瞑想法の主柱になっています。

バグワンからはいろいろな教えを授かり、自分自身で自己検証して、自分の生き方の基盤にしているものも多々ありますが、いくつか例を挙げると、以下のようなものがあります。

* 「瞑想とは、窓の外を歩いている人々のように、自分自身の思考を内的に観察することである。最初は、思考がひっきりなしに動いていて、その間にはギャップは見えないが、心 (マインド) が静まってくればくるほど、それだけ思考間のギャップが広がっていく。」
* 「本当の自分はそのギャップ (ノーマインド) である。」
* 「世界の中にいてもいいが、世界の一部とはなるな (Be in the world, but not of the world)。」 (これは、私には、「世俗にいるべきだが、アンカーリングの罠から解放されて、自由自在に生きろ」という意味のように受け取れます。)
* 「『欲望』があるのなら、そのことを徹底的にやりまくれ。やった後に、その欲望はひとりでに落ちていく。」 (ドラッグやフリーセックスを容認するこのラディカルな教えのために、バグワンに対する評価は真っ二つに割れています。もちろん、バグワンは、NLP のメタポジションに通じる、欲望自体とは分離 (自己同一化解除) された「観照者 (Witness)」を首尾一貫して強調しました。)
* 「もし仮に山頂で『真理』を獲得したのであれば、下の市井の場所まで降りてきて、できるだけ多くの人にその教えを伝えなさい。」 (この教えを守って、私は、1988 年から 1995 年までの英国での「隠遁生活」の間に自己修行して獲得したものを市場に伝えようとして、2002 年の帰国後 NLP を教えてきています。)
* 「サイキック パワーは絶対に自分から求めてはいけない。求める者は (麻原彰晃 (巷ではバグワンをモデリングしたと言われています) のように?) 必ず堕落の道をたどる。サイキック パワーがひとりでに自分のもとにやってきたら、それはそれであるまがまに受け入れるだけでいい。」 (この教えを守って、私は、NLP を使って人心操作しようとしたことはこれまでに一度もありませんし、そもそもバグワンの組織 (私自身は『宗教団体』だと捉えていませんが) に誰一人勧誘したこともありません。)
* 「弟子入りする場合は、生きた師匠を見つけ、そのもとで学べ。」 (バグワンは、どこかで、生きた導師はあまりにも危険なので、特にインテリの人々は怖がって近づかないが、その導師が死んだ後は、そういう人々は (もう危険性はないので) 群がって寄ってくるだろう、という意味のことを言い残しています。)

残念ながら、というか、当然のことながら、単なる方法論にすぎない NLP には、バグワンが私に教えてくれたような精神性も倫理性もないし、「NLP オンリー」で抜本的な自己変革ができるとはとうてい思えません。私は、人生において、精神的主柱としてバグワンに出会い、その師匠から「方向性」を示していただけたこと、その後、その方向性をどのように深めていったらいいかについての「方法論」としての NLP をグリンダー氏から学ぶことができたことを、至上の喜びと感じています。

その二人のいずれか一人に出会っていなければ、あまりにも偏りすぎていたと思うし、そもそも今の私は存在していないでしょう。

1988 年に NLP を知った後は、この「学習の加速法」が「悟りの道」にも適用できないかという実験を、ロンドン市内の自宅で「隠遁生活」しながら 7 年間行い、その過程の中で、自分の過去のトラウマすべてを完全根絶することに成功しました。

1990 年 1 月の私の師匠の死は、その年の春に知りました。私自身、その 5 年前に最後に師匠に会って以来、ずっとセラピー、催眠、NLP の研究をしてきていたのですが、私のアウトカムは、以前 RIMU で学んだ「東西の融合の方法論」(デヒプノセラピー) を超えるような「NLP とセラピーの融合の方法論」を作り上げて、インド プーナの師匠に「謹呈」したいと思っていたのですが、その前に亡くなったことには、「もうお前にはわしはいらん。一人立ちして、自分自身の道を自分自身で切り開いていけ!」という師匠からのメッセージのように感じ取れました。

その意味で、私は、それ以来、「自分自身の師匠を超えることのできない弟子は『できの悪い弟子』である」と言ったというレオナルド・ダヴィンチの立場を実現しようとしてきていると自己認識しています。

その後、バグワンのルートを探ろうとして、ヴェーダンタ哲学、特にアドバイタ (非二元論的) ヴェーダンタの創始者シャンカラチャリヤ、さらには印哲の「源泉の導師」等を研究し、その発見を CD-ROM 本『CYBERBOOK: 悟りのための統合的認識論』にまとめました (2000 年刊)。

2002 年に 20 年ぶりに帰国して以来、ピュア (= 学術的) な形で NLP を教えてきていますが、私にとっては、上述のように、バグワンの弟子としての精神世界の修行があってこその NLP でしかありません。

私にとって、「精神主義性と NLP のどちらを選びますか?」という質問への答えは自明です。私には、NLP を超える方法論が存在しえるという意味で、「認識論的方法論」としての NLP を、それ以上の方法論を見つけた時点で、何の未練もなくきっぱりと捨て去る用意はいつでもできていますが、経験的に (右脳的に) 私がこれまで獲得してきた「本体論的 (存在論的) 洞察」を私から奪い去ることは、私の師匠を含めて、誰にもできないことです。それは、私だけにとどまっていて、今後もとどまり続ける個人的経験です。もしかしたら、この点に、「本体論者」である私と「認識論者」であるグリンダー氏との差異があるのかもしれません (私もグリンダー氏も、二人とも、世界地図の外にあるのは誰も語ることができない「神秘」であると主張する神秘主義者であることには相互同意しています。)

さらに、しばらく前に私は、ある人に、「なぜ北岡先生は、印哲の枠組みでのみ活動しようとしているのですか? 『真理』という高次のアウトカムがあるのであれば、そこに行って、そこから再び降りていって、他にも活動領域を広げてもいいのではないですか?」という助言を受け、それにしたがって、私は、最近、ユダヤ密教 (カバラ)、占星術、錬金術、魔術、神話学、シャーマニズムといった領域にも研究対象を広げようとしてきているところです。(これらの研究は、片手間にはできないので、やはり、当初の帰国の目的である資金稼ぎの後、カリフォルニア サンフランシスコ近辺で死ぬまで研究三昧に入ってみたいと、ますます感じているところです。)

以上が、私の師匠についてです。私の師匠について私が語るのはこれが最初で最後だと思いますが、この文章を書いていて、自分は私の師匠のための「鎮魂歌」を書いているのかとも思えました。改めて私の師匠に心から、真に心から感謝したいです。合掌。

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