Creativity Enhancement Ltd.
VOL.4 2007.10.3
『北岡泰典メ−ルマガジン』
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精神世界の求道者・変性意識の学際的研究家・国内NLP第一人者である著者が、
スピリチュアルな世界・カウンターカルチャー等について縦横無尽に語ります。
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『カウンターカルチャーについて』
皆さん、こんにちは。変性意識の学際的研究家・NLP ファシリテータの北岡泰典です。
本メルマガの第 2 号と第 3 号では、『私の人生について、その一』および『その二』と題して、私の大学卒業までの人生について語らせていただきました。
私は、NLP を教えるときは、首尾一貫して「コンテント フリー」を貫いているので、読者の方々で、これほどまで「私小説」的にコンテンツに入っている私の側面に出会って、面食らった方もいるかもしれません。
しかしながら、私は、大学時代、学士卒業論文を書くために仏作家マルセル プルーストの数千ページにわたる小説『失われた過去を求めて』を (ほぼすべて原文で)
を読むことができた人ですし、さらには、私の著書『5 文型と NLP で英語はどんどん上達する! 』でも書いたように、(NLP の学習を始めた後に)
学研の辞書『アンカー英和辞典』を第 1 ページから最終ページまですべて読み、かつ、すべてのページの項目記載内容に鉛筆で下線を引くことのできた人であるということからも、私がこれだけのコンテンツ志向性に陥ることができるだけの「柔軟性」ももち合わせていることを示せたかと思います。
とは言うものの、やはり、本メルマガの本題である「精神世界と NLP」、「変性意識状態」、「瞑想」、「催眠」、「カウンターカルチャー」といった話題について、「認識論的」および「哲学的」考察を加える必要性も切に感じましたので、私の大学卒業後の人生
(特に、北アフリカ アルジェリアのサハラ砂漠での生活と、その後の 20 年近くの欧米での「放浪」の人生) についての「私小説的カミング アウト」に関しましては、本メルマガの将来の号で述べたいと思っています。
ということで、まず本号では、私の人生の最も重要なキーワードの一つである「カウンターカルチャー」について考察を加えてみます。
まず第一に、この言葉は現在ほぼ「死語」になっていて、特に、20 代、30 代の若者には、その意味が理解できないということを耳に挟みました。
私自身、そもそも 60 年代のヒッピーに端緒を置くこの文化なしには、NLP が基盤としているゲシュタルト (フリッツ パールズが創始者)、人間性心理学
(カール ロジャーズその他)、エンカウンター (西洋では本来、相手を身体的にかなり傷つける場合もあるほど「暴力的な」セラピーでしたが、国内に輸入された段階で極度にソフトなものになっています)、プライマル
(「原初の叫び」と訳せるセラピー)、リバーシング (過呼吸をともなった身体的セラピー) といった現代西洋心理療法も、そして、それらを基盤として生まれた
NLP 自体も、生まれえなかったと思っていますので、少なくとも、このメルマガの読者の方々には、この文化がいかに「偉大な遺産」で、かつ 21
世紀の現代社会にもどれだけの影響を (影から) 及ぼしているかについて、認識していただきたいと思いました。
ちなみに、今の若者にとっては死語である「カウンターカルチャー」は、「2007 年問題」として話題になっている、今年から大挙して退職していく「団塊の世代」
(言ってみれば、今の若者の祖父母の世代) にとっては、若き頃の彼らのアイデンティティ形成にとって「死活的要素」になっていることを指摘しておいてもいいと思います。
私自身、1968 年東大安田講堂を占拠した全共闘世代からは数年遅れて生まれてきた世代で、高校時代、このわずか数年の違いを心から後悔し、歯軋りし、自ら大江健三郎の小説風に「遅れてきた青年」と自己形容することをはばかりませんでした。このことについては、私は、本メルマガの第
2 号で以下のように書きました。
「このように、文学的にも、音楽的にも、文化的にも、政治的にも、私の方向性は、高校 2 年くらいまでにすべて決定づけられました。この時期までに影響された文化的要因を、その後のサハラ砂漠と欧米での『放浪』の中で、ほぼすべて完全実現していくことになります。この辺は、ひょっとしたら、私は、団塊の世代の人々が私に教えた、学生運動、ロック
ミュージック、ドラッグ カルチャー、カウンター カルチャー、精神世界等に関連した生き方を、当の世代の人々は、その後企業に就職することで『アンフィニッシュド
ビジネス (未解決の問題)』として頭の片隅に残してきたままでいる一方で、『彼らにみごとに踊らされてしまった』私は、まさしく大江風に『遅れてきた青年』として、その後の人生で、すべて、実践、実験、体験してきた、という究極の逆説を示唆しているのかもしれません。(その意味で、私は、今後急増していく団塊の世代の退職者の方々に対して、彼らの求める最も適したライフ
コーチング (生き方のオリエンテーション) を提供できるという、絶対的自信をもっています。)」
「カウンターカルチャー」は、私にとっては、1967 年のサンフランシスコのヘイト アシュベリー地区を中心とした「サマー オブ ラブ」現象が生み出したヒッピー文化であるので、その次の世代であるパンクを含む「サブカルチャー」、非合法的色合いまたはマイナー性の意味合いの強い「アングラ
(アンダーグラウンド) カルチャー」とは、私の世界地図では同一視されません。
また、「カウンターカルチャー」は、「プリ (前) ヒッピー」現象である「ビートニック文化」とも区別されます。
「ビートニック」は「50 年代に呼ばれていた自由気ままな若者のこと」と定義されていて、このジェネレーションは、通常、ジャック ケルアック、ウィリアム
バロウズ、アラン ギンズバーグ等の作家によって代表されますが、私自身は、この文化の洗礼を受けるには遅く生まれすぎました。(なお、これらの三人の作家については、最近『ビートニク』という記録映画が公開されています。)
最近の私の「公式ワークショップ」に参加してくれた若いプロ ミュージシャンは、2000 年に早稲田大学文学部を卒業する際に卒論テーマとしてプリヒッピーのケルアックの小説『路上』を選んだそうですが、これには私は驚愕し、脱帽しました。(まだ、日本の若者も捨てたものでもない、と思いました。)
ビートニック文化がどのようにカウンターカルチャーに変容したかについては、ある
Web ページには、以下のように書かれています。
「1960 年代初頭サンフランシスコのノース・ビーチに住み着いていたビートニックが世俗化を嫌ってヘイト・アシュベリーに集まり始めます。それは
65 年以降頂点を迎えます。ここにサイケデリックの花が開き始めます。音楽も、ジャズ、フォークからロックへ、ヒップからヒッピーへ時代は変わってきます。そして、この『ヘイト・アシュベリー』地区にすむものたちのライフスタイルを信奉する一群の人達を総称してフラワーチルドレンとアメリカのメディアは呼びました。(...)
決定的だったのはビートルズの 1967 年 6 月の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のリリースでした。」
高校生の私とカウンターカルチャーの出会いとしては、音楽的には、1969 年 8 月 15 日から 17 日までの 3 日間、米国ニューヨーク州で開かれた、ロックを中心とした大規模な野外『ウッドストック
コンサート』がありました。当初、主催者側は、1 万人〜 2 万人規模の入場者を見込んでいましたが、実際は 40 万人以上が参加し、事実上ほぼ無料イベントとなりました。採算的には、レコード
アルバム化と映画化により、最終的には収益にも結びつきました。このコンサートの参加バンド数は 30 組以上でしたが、当時私が特に関心をもっていたバンドは、メラニー
(実は、私が高校時代に人生で初めて買ったレコード アルバムはこのフォーク歌手でした)、アーロ・ガスリー (ボブ・ディランが師と仰いだウッデイ・ガスリーの息子)、ジョーン・バエズ
(ディランと共に 60 年代フォーク・ブームの象徴で、反体制派シンガー・ソング・ライター)、サンタナ、ジャニス・ジョプリン (ジミ・ヘンドリックスと同様、ドラックのオーバードーズで夭折した無比の天才的ミュージシャンです)、グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン
(グレイトフル・デッドとジェファーソン・エアプレインは、ウェスト コーストの「サイケデリック ミュージック」の代表的バンドでした)、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル
(ベトナムに降ったナパーム弾の雨を意味した「雨を見たかい」 )、ザ・フー、ジョー・コッカー、テン・イヤーズ・アフター (イギリスのブルース・ロック・バンド、「アイ
ウォークアップ ディス モーニング」等が代表曲)、ザ・バンド (ラスト・ライヴのミュージック・ドキュメンタリー映画「ラスト・ワルツ」にはエリック・クラプトン、ボブ・ディラン、ニール・ヤング等がゲスト出演しています)、クロスビー・スティルス・ナッシュ・ヤング
(CSN&Y) (「デジャブ」、「4 ウェイ ストリート」が代表的アルバムです)、ジミ・ヘンドリックス等でした。
前々年の「サマー オブ ラブ」の 1967 年 6 月には、カリフォルニア州モントレーで世界初の本格的野外ロック フェスティバル『モントレー・ポップ・フェスティバル』が開催されていましたが、このコンサートには、ママス・アンド・パパス
(代表曲は「夢のカリフォルニア」)、サイモン&ガーファンクル (代表曲は「明日に架ける橋」、「コンドルは飛んで行く」等)、ジェファースン・エアープレイン、ジャニス・ジョップリンとビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー、ジ・アニマルズ、ザ・フー、カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ、オーティス・レディング
(ソウル音楽に多大な影響を及ぼしたジョージア州出身のシンガー)、ジミ・ヘンドリックス (言わずもがなの、ポップ史上最も重要な天才的ギタリスト。かのエリック
クラプトンでさえ「なぜ先に逝ってしまったのか」と悔やませるほどのミュージシャンでした。当初英国で認められていたヘンドリックスは、このコンサートのステージ上でギターに火をつけるパーフォーマンスを行い、アメリカに「凱旋」しました)、ラヴィ・シャンカール
(インド出身のシタール奏者。71 年 8 月 1 日にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで行なわれたチャリティ・コンサートの「バングラデシュ・コンサート」には、ジョージ
ハリスン、エリック・クラプトン、ボブ・ディラン、レオン・ラッセル、リンゴ・スターとともに出演。ノラ・ジョーンズはシャンカールの娘)、アル・クーパー、クイックシルバー・メッセンジャー・サービス、ザ・バーズ、バッファロー・スプリングフィールド
(このバンドは当時音楽的に 10 年以上進みすぎたバンドと評されていました。メンバーには、後の CSN&Y のスティーブン・スティルスと高校時代の私のアイドルのニール・ヤングがいました)、ザ・フー、その他のバンドが出演しました
(ここでも、出演したバンドのうち私が興味をもっていたバンド名だけを列挙しました)。
以上二つの重要なロック コンサートは、映画化、DVD 化されていますが、もう一つ DVD 化されているロック フェスティバルとして『フェスティバル
エクスプレス』 (1970 年) があります。これは、借り切った列車でカナダをツアーするという、「最後のロック・フィルム」とも形容されているフェスティバルです。出演者は、ジャニス・ジョプリン、ザ・バンド、グレイトフル・デッド、バディ・ガイ等です。
高校生の私が洗礼を受けたカウンター・カルチャー系の映画としては、1969 年公開のピーター・フォンダとデニス・ホッパーによる「アメリカン・ニューシネマ」の代表作の一つ『イージー・ライダー』
(サントラは「ワイルドで行こう」のステッペンウルフ)、1969 年製作の映画で、地中海のイビザ島を「ヒッピー化」させる端緒となったミムジー
ファーマー主演の仏映画『モア』 (サントラはピンク フロイド)、アメリカの学園紛争を題材にした 1970 年製作の米映画『いちご白書』 (サントラは、主題歌の「サークル・ゲーム」を歌うバフィ・セントメリー、クロスビー・スティルス・ナッシュ・ヤング
(CSN&Y)、ニール ヤング、その他) 等がありました。
ちなみに、アメリカのフォーク シンガー、アーロ・ガスリーが原作・音楽・出演を担当したニューシネマの代表作の一つに『アリスのレストラン』 (1969
年) がありますが、この映画のアーサー ペン監督の他の作品として、『俺たちに明日はない』 (1967年)、『小さな巨人』 (1970年)、『フォー・フレンズ/四つの青春』
(1981 年) があります。『フォー・フレンズ』は 1982 年にパリで見ましたが、仏題名は『ジョージョア』だったと思います。全編に名曲「ジョージア・オン・マイ・マインド
(我が心のジョージア)」が流れ、私には、ペン監督の 60 年代のヒッピー文化を振り返った自伝的映画に思えました。私の非常に好きな映画の一つです。ちなみに、インターネット上の映画批評では「かなり衝撃を受けた作品です」という私と同様の感想が見られます。
少し時期がずれた 1979 年製作の『アルタード・ステーツ』 (意味は「変性意識」) は、イギリス映画界の奇才、ケン・ラッセル監督がアメリカで製作した映画で、主演はウィリアム
ハーツです。この映画は、カウンターカルチャー的には、ティモシー リアリー (LSD 擁護者で、カウンターカルチャーの「グル」) と同じくらい重要な人物であるジョン
リリー (LSD とイルカとのコミュニケーションの研究者) がモデルになっています。映画には、リリー自身が開発した「アイソレーション タンク」
(サマーディ タンクまたはフローティング タンクとも呼ばれる水槽 (ジェラルミン製のはずです) で、ユーザは、光と音が遮断された水槽内部の羊水と同じ濃度に保たれた塩水系の液体の中で長時間浮かぶことで、いわば「知覚遮断」状態となり、瞑想状態が体験でき、視覚的、聴覚的幻覚を見始めるとされています)
が登場します。人間の身体 (DNA) には、魚類から両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類への進化のプロセス、あるいはそれ以前からの進化のプロセスが詰まっていると言われていて、それを遡って生命の根源を探究したいと考えた主人公は、アイソレーション
タンクと幻覚剤を用いて、自らを実験台にして研究を始め、やがて自分の肉体に予期しない変化を体験し始めます。映画の中の主人公の植物性幻覚剤による幻覚体験の視覚的描写は、明らかに、カルロス
カスタネダのシリーズ本の内容に影響を受けています。
高校時代の私は、文学的には大江健三郎一辺倒でしたが、当時のヒッピー文学としてはサリンジャー (代表作は『ライ麦畑でつかまえて』、『ナイン・ストーリーズ』、『フラニーとゾーイー』等)
がいました。私は、当時、世代的には「プリ ビートニック」のヘンリー ミラーの小説を愛読しました。ミラーと愛人のアナイス ニンの関係にヒッピー性を見出したりしました。ミラーの作品には『北回帰線』、『ネクサス』、『ビッグ・サーとヒエロニムス・ボッシュのオレンジ』等があります。ちなみに、パリ生活のミラーを描いた『北回帰線』
(1971 年) は映画化されていますが、これも私の非常に好きな映画です。
このように、文化的に言って、高校時代の私は、カウンターカルチャーの影響を映像と音楽でもろに受けましたが、文学的にはそれほど直接には受けませんでした。この事実は、実際に
(ビートニック文学のようには) 「ヒッピー文学」なるものが本格的には確立されなかったのか、あるいは、単に私がこの点について無知なだけかは興味深い考察点ですが、どうも、ヒッピー文化自体、右脳的な体験を前面に押し出した
(「実際に体で体験する」) 文化なので、左脳的なヒッピー文学は成立しづらかったように私には思えます。
以上が、高校生の私が洗礼を受けたカウンターカルチャーの映像と音楽の要素でした。
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カウンターカルチャーの端緒としては、プリヒッピー期のオルダス・ハックスリー著『知覚の扉 (Doors of Perception)』(1954
年) が挙げられます。この書の中で、ハックスリーは、カクタス (サボテン) から抽出された幻覚剤メスカリン摂取から生じる知覚が鋭敏になった幻覚体験を詳述しました。ジム・モリソンが率いたロック
バンドの「ドアーズ」の名前はこの書から取られています。また、ハックスリーは『モクシャ (Moksha、意味は「解脱」)』(1977 年) という書も残していますが、これはハックスリーとハンフリー
オズモンドというカナダ在住の英国人精神科医との間の幻覚剤の体験に関する書簡集です。実は、このオズモンドこそ、幻覚剤を意味する「サイケデリック」という言葉を作り出した人です。
この変性意識を作り出す体験に関する実験は、その後、ハーバード大学の心理学教員のティモシー リアリーとリチャード アルパートの LSD (1938
年にスイスのバーゼルにあるサンドス製薬会社の研究室でスイス人化学者アルバート・ホフマンによって麦角菌の派生物から合成された幻覚剤。米国で非合法化されたのは
1967 年) 実験に引き継がれます。リアリーとアルパートはこの実験のために 1963 年にハーバード大学を追放され、その後、二人は、ラルフ
メツナーとともに『チベットの死者の書 - サイケデリック バージョン』 (1964 年) を書きます。これは、チベット仏教が言う死後の世界
(「バルド」) を LSD の幻覚体験の立場から再描写した本です。
リアリーは、その後、「Turn on, Tune in, Drop out!」のモットーを唱えました。これは、LSD やサイケデリック物質で意識を拡張し
(turn on)、より高次の意識に波長を合わせ (tune in)、自由な意識となって既成の社会からドロップアウト (drop out)
せよ!、という意味で、ヒッピー文化の金科玉条となりました。一方のアルパートは、その後インド人導師に弟子入りし、精神的求道者となり、「ラム ダス」として『ビー・ヒア・ナウ』
(1971 年) を書きました (ラムダスとインド人導師との出会いについては、本メルマガの第 2 号に書きました)。この本も、ヒッピー文化の「バイブル」となりました。
LSD 実験者としては、もう一人、チェコ出身のトランスパーソナル心理学者のスタニスラフ グロフの名前を挙げることができます。グロフは、ユング派の精神科医で、60
年後半に LSD が非合法化されるまで、母国で LSD と心理療法を組み合わせたワークを行いました。著書には『LSD と心理療法』(1980
年)、『深層からの回帰 (原題は『The Holotropic Mind』)』 (1992 年) 等があります。1967
年以降米国に移住し、LSD 非合法化の後は、呼吸セラピーである「ホロトロピック・ブレスワーク」を開発しました。私の個人的な理解では、この方法は「リバーシング
セラピー」に近いものです。グロフは、1969 年設立のトランスパーソナル心理学会の初代会長です。
上にも引用したように、1960 年代初頭サンフランシスコのノース・ビーチに住み着いていたビートニックが世俗化を嫌ってヘイト・アシュベリーに集まり始め、1967
年の「サマー オブ ラブ」現象で、ヒッピー化の頂点を迎えます。彼らは、主に大麻や LSD 等の「幻覚剤」を通じて、既成概念を超えた「代替的な生き方」を模索し、「反体制」的なライフスタイルを提案しました。伝統的な制度に反発し、縛られた社会生活を否定し、ベトナム戦争に反対し、自然への回帰を志向し、東洋的宗教への関心を寄せました。ヒッピー運動のキーワードは、長髪、ロック、マリファナ、サイケデリック、反戦、自然食、禅、密教、瞑想、フリーセックス等でした。
この運動はまたたくまに世界に広がり、たとえば、英国ロンドン市ウェストエンドのカーナビー ストリートはロンドンのヒッピー文化のメッカになりました。ロンドン北部のカムデンタウンもヒッピーの拠点になりましたが、カムデンタウンは、現在は、むしろパンクのメッカになっています。
この背景を元に、ビートルズは、1967 年 6 月に彼らの最高傑作とされる『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』をリリースするわけですが、このアルバムは、ビートルズのメンバーの幻覚剤の経験に強く影響されています。たとえば、このアルバムの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」という曲の頭文字は「LSD」です。
当時、ジョージ ハリスンが超越瞑想のグル、マハリシ・マヘーシュ・ヨギに傾倒していて、ハリスンはマハリシの講話に参加するためにビートルズの他のメンバーとともにインドに赴きました。ポール・マッカートニーとジョン・レノンはマハリシの講話そのものが胡散臭いと思うようになり途中で帰国してしまいますが、私は、この事件がきっかけとなって、西洋のヒッピーが大挙して、東洋のグルを求めて、インド、カトマンズー、チベット等に押しかける流れを作り出した、と考えています。
ビートルズとマハリシの出会いがなければ、私が 1983 年にアメリカ オレゴンで弟子入りしたインド人の導師バグワン シュリ ラジニーシ (1990
年 1 月に死去したときの名前は「和尚」) のもとに 1960 年代後半から 1970 年代にかけて西洋人ヒッピーが数千人、数万人単位で弟子入りを求めて集まってくるということもなかったのではないか、と私は考えています。
(ちなみに、私は、バグワンへの弟子入りを 1981 年にアルジェリアで決意しましたが、そのときにはバグワンはすでに母国インドを離れ、アメリカ
オレゴン州のコミューンに移住していたので、即アルジェリアからオレゴンに向かわず、約半年間、ヨーロッパ全土を放浪する旅に出ましたが、これは、60
年代に西洋人が踏んだ「ヒッピー → 精神世界」という轍を私も踏んでみたいと思ったからでした。)
ところで、ビートルズのアルバムのうちで、私が最高と思うものは、(「サージェント・ペパーズ」ではなくて) 当時 2 枚組みレコードで発売された通称「ホワイト
アルバム」 (1968 年) でした。ジャケットは白色で、この中の「レボリューション 9」の曲等は、薬物系の幻覚体験をうまく聴覚的に表しています。また、1970
年 11 月に発売されたジョージ・ハリスンの 3 枚組レコード アルバムの「オール・シングス・マスト・パス (All Things Must
Pass)」というアルバムは、私は、当時、発売直後にほぼリアルタイムで聴きましたが、非常に大きな衝撃を覚えたことを記憶しています。
なお、本ページの冒頭で、私は、仮にカウンターカルチャーが存在しなかったら、ゲシュタルト、人間性心理学、エンカウンター、プライマル、リバーシングといった現代西洋心理療法も、これらの心理療法を基盤にして生まれた
NLP も生まれえなかったと思っている、と述べましたが、これは、以上のようなカウンターカルチャーと呼応して 1960 年代にアメリカで起こった、人間の可能性の開発を目指した「ヒューマン
ポテンシャル運動」のメッカとして「エサレン研究所」がカリフォルニア州ビッグ サーに設立されたことを背景としています。この心理学・ボディーワークを学ぶ宿泊研修施設である研究所では、オルダス・ハックスリー、アブラハム・マズロー、フリッツ・パールズ、アラン・ワッツ、カール・ロジャース、グレゴリー・ベイツン、ジョン・C・リリー、ヴァージニア・サティア、リチャード・アルパート、ティモシー・リアリーといった蒼々たる人物がセミナーまたは実験を行いました。
ヒッピー文化 (すなわちカウンターカルチャー) は、1975 年のベトナム戦争の終結と当局の薬物に対する取り締まりにより、徐々に衰えていきます。その後、ヒッピー文化はパンク文化に変容していきます。
私は、個人的にはパンク文化は嫌いです。パンクは、音楽的には、たとえば、セックス ピストルズのようなバンドによって象徴されるのでしょうが、私には、「パンカー」はあまりにも攻撃的で、自虐的に思え、ヒッピーが信条にした愛と平和主義とはかけ離れているように思えてなりません。そうは言っても、現代音楽においてロックとパンクの違いはなかなか難しいようですし、たとえば、今私が一番好きな、英国ラグビー出身の「UK
ロック」バンドのアルバムは「オルターナティブ & パンク」として分類されています。
この区別の曖昧さのために、私が、私のアイデンティティはビートニック文化でもパンク文化でもなく、ヒッピー文化にあります、と言っても、本ページで書いているようなカウンターカルチャーの詳細がわからないかぎり、その意味が通じないように思います。
どれだけカウンターカルチャー (すなわちヒッピー文化) が現代社会に (潜在的に) 影響を与えているかについては、巷にあふれている「ジーンズと
T シャツ ルック」を見れば、一目瞭然ではないでしょうか?
さらに、私の世界地図の中では、現代社会に影響を与え続けているヒッピーの「申し子」として三人の名前を挙げることができると思います。
一人目は、若者にドラック文化を定着させたティモシー リアリー (1920 年〜 1996 年) です。彼は、「筋金入り」の LSD 擁護者でしたが、そのカウンターカルチャー的な影響は絶大だと思います。
私は、1981 年以降 20 年近く欧米に住みましたが、ドラック文化が若者の間でどれだけ定着しているかは、日本人の想像をはるかに越えています。
欧米の若者のドラッグの使用風景は、たとえば、私の好きな映画の『モア』や、最近知人から勧められて、DVD を購入して見てみたら、ロンドンのヒッピー文化揺籃期の雰囲気と非常に見慣れた森林公園の風景
(おそらく私が現在も SOHO を構えている場所の至近距離にあるハムステッド ヒースと思われます) が写っているのを知ってびっくりした映画『欲望』
(ミケランジェロ アントニオーニ監督、1966 年製作) 等の「ドラッグ パーティー」シーンにうまく描写されています。
『モア』を見たある日本人は、私に「あなたは、これを青春の思い出として大切にしているのですか? あるいは、当時の現象を描き出している、ドキュメンタリー的な要素を大事にしているのですか?
それとも、こんな誘惑にあなたはどうするといったお誘いですか?」という質問をされましたが、私はこの方に、「変性意識的に言って、『モア』で出てくるドラック摂取シーンは、(この映画以降、と言っても間違いではないと思いますが) 欧米の若者の間で、いたるところで何千万、何億人という単位で繰り返されてきているものなので、以上のご質問はすべてある意味ではナンセンス化されてしまうのではないでしょうか、なぜならば、このシーンは、現在の欧米の日常の事実的描写にすぎないからです」と答えました。
つまり、確かに、「麻薬」は欧米では非合法化されていますが、私の経験では、欧米では、「ソフト ドラッグ」と「ハード ドラック」の違いが非常に明確になされていて、「ソフト
ドラック」に含まれる大麻、LSD、(そして最近では) エクスタシー等の使用は、社会全体から (使用者の数があまりにも多すぎるので) 「ほぼ見て見ぬふり」の待遇を受けていて、日本における、非合法であるがほとんど捕まらない「立ちション」的な意味で見られています。大麻を合法化するヨーロッパの国も、オランダを含め、近年増えてきているようです。
ここで誤解がないように強調しておくべきことは、欧米の「ハード ドラック」には、アンフェタミン (覚醒剤)、ヘロイン、コカイン等の (ヘビー)
ドラックが含まれ、欧米では、依存症、中毒症を呈するこれらのハード ドラッグに対しては、極めて強い拒否反応があるという点です。この点では、日本人の「十把一絡げ」的な「麻薬
(ヤク)」 (というラベルが貼られているものすべて) に対するアレルギー反応と西洋人の「ハード ドラッグ」に対する反応はほぼ同じと言い切れます。(私自身、「ハード
ドラッグ」に対しては、首尾一貫して反対の立場を取ってきています。)
このように、欧米では、非常に分別のある「大人」の反応が「ソフト ドラッグ」に対してなされていると、私は見ていますが、「ソフト」と「ハード」の区別ができない日本人にはこのような反応は期待できないのもしれません。
この辺の日本における「非合理性」は、よく言われるように、現在非合法の大麻と比べて、合法のお酒や煙草の方がよっぽど人体に有害である、という点を考慮すれば、炙り出されてくるかと思います。
このような欧米のドラック文化を作り出した張本人は、リアリーだと言って過言ではないと思います。私は、彼の「反骨精神」は筋金入りだと思います。
この点については、天外司郎氏が茂木健一郎氏との対談 (講談社ブルーバックス『意識は科学で解き明かせるか』、2000 年) の中で (茂木氏の、日本の問題点は、本当の意味のカウンターカルチャー革命を経験していない点にある、アメリカ人は基本的な教養として、カウンターカルチャー体験を持っている、日本にはそれがなくて、意識の変性状態のようなテーマを研究するときの非常に大きな欠落になっている、という内容の発言に対して)
「日本の社会の大きな問題点は、カウンターカルチャーを経験していないことです」と述べていますが、私には、欧米の若者をここまでドラッグ文化に浸させる牽引力となったリアリー
(さらには、ジョン リリー、スタニスラフ グロフ) のような「ガッツのある指導者」が日本に出てこなかったことが、このことの一番の要因のように思えます
(私は、ここで、ある意味では、「言行不一致」 (つまりは「耳年増」) だった 60 年代の団塊の世代を「断罪」していると、見られても OK
です)。
このため、60 年代、70 年代の日本には、ヒッピー文化は、ロック音楽、ニューシネマ映画を含めて「表面上の一過性のファッション性」だけが輸入されて、その背後にある深遠な哲学、生き方等の抜本的な背景は理解されないまま、この文化は線香花火のように消え去っていったように思われます。
私は、たとえば、現在のロック ミュージック、パンク ミュージックを始めとする現代西洋文化を真に評価することは、その源泉となっている 60 年代のカウンターカルチャーを「右脳」的に理解することなしには、とうてい不可能であろう、と考えています。
現代社会に影響を与え続けているヒッピーの申し子の二人目は、意外にも、マイクロソフト社のビル ゲイツです (あるいは、Wikipedia
の「ヒッピー」のページの「ヒッピーと関連する人物」で挙げられているアップル社 CEO のスティーブ ジョブズを挙げてもいいと思います)。
ゲイツ (あるいはジョブズ) は、あきらかに 60 年代のカウンター カルチャーの洗礼をもろに受けた世代で、彼の人生哲学にはヒッピー的な「反骨精神」、「反体制主義」が根強く反映されているはずです。
私が「すごい」と思う点は、ゲイツは「兆億長者」 (?) になって、現在は完全に体制側になっていますが、その状況の中で、ヒッピー的な哲学を Windows
というコンピュータ OS (オペレーション システム) というツールを使って体現化し、かつ、そのツールを通じて、(影の意味で)
「ヒッピー性の世界制覇」に成功してしまっているという点です。
こういう「逆説」的な、気骨のある、革新性に富んだ経営者は、日本には出てきていないと言い切れるかと思います。
現代社会に影響を与え続けているヒッピーの申し子の三人目は、NLP 共同創始者のジョン グリンダーです。
まず、グリンダー氏の 60 年代の活動については、私のメルマガ『これが本物の NLP だ!』第 31 号 (2005 年 4 月 21 日号)
で、以下のように書かせていただきました。
「グリンダー氏の [2005 年 3 月の東京ビッグサイトで開催された『NLP リーダーシップで才能を開花させよ』という] ワークショップの当日
(実は、当日の朝グリンダー氏とともにワークショップ会場入りする直前に待機していた裏通路で)、私は、高校生時代 (1971年当時)、15 歳のときに、文化的に閉塞した関西のごく小さな地方都市で、ジェリー
ルービンという『イッピー』 (米国西海岸文化において、ヒッピーの後に出現した、『Youth International Party (若年国際党)』の党員)
の『Do It! (やっちまえ!)』という本を読み、衝撃を受けた覚えがあり、その『反体制的傾向』が 35 年後に、こうやって NLP を実践していることにつながっているのです、と同氏に立ち話として伝えたところ、なんと、同氏が、実は、自分は、1960
年代に当のルービンと一緒に活動していたイッピーで、SDS (民主的社会のための学生党) の一員で、ベトナム反戦運動等を行っていた、とおっしゃられたので、私はほぼ腰を抜かしました。
もちろん、私は、NLP の内在的な『因習打破的』な傾向のために、グリンダー氏は、NLP を創始する以前の 60 年代は、おそらく『左翼的』な活動をしていたのでは、と無意識的に推測してはいましたが、35
年前に、田舎の町で、私の『オルターナティブ (代替) な生き方』を完全に決定付けた本の著者とグリンダー氏が昔友人であったとは、夢にも思いませんでした。
私は、高校時代、左翼的学生運動にも関わった『遅れてきた青年』 (1971 年に地方都市で学生運動に参加した、という意味です) で、小説的には、大江健三郎の『日常生活の冒険』、『個人的体験』、『万延元年のフットボール』の世界に生き、音楽的には、ニール
ヤングの『ヘルプレス』、『サザンマン』、『ダウン バイ ザ リバー』等に耽溺した青年でした。
また、当時、アングラ雑誌で、ラム ダス (リチャード アルパート) という元ハーバード大学の心理学者がインドの導師に会った際の出来事等を読み、瞑想や催眠等を含む『変性意識』の研究にも本格的に興味をもち始めたのも、感受性の豊かなこの高校時代でした。(催眠自体に出会ったのは、私が、5
歳のときに入所していた、肢体不自由児を収容するカトリック系施設でしたが。)
以上のような、『原体験』ともいっていい、文化的背景 (特に、ルービンの『やっちまえ!』) を元に、私は 15 歳のときに、将来最終的には NLP
という学問によって閉じられることになる『内的模索のループ』を開き始めたのですが、[...] グリンダー氏の口から直接、『私はルービンの友人だった』と聞き、巡りに巡ったそのループがやっと
35 年後に閉じられたような気もしました。
思うに、グリンダー氏も、40 年近くも経った今、日本のごく小さな地方都市の出身の日本人から『私は、35 年前に (あなたの友人であった) ルービンの本を読んで、人生が変わりました』といった言質を聞いて、ほぼ驚愕したのではないでしょうか。」
この引用の中の「イッピー」は、ヒッピーよりもさらに過激な政治色をもっていて、アナーキーな左翼集団の様相を呈していた集団でした。また、『Do
It! (やっちまえ!)』は、極めて反体制的志向の強い、扇情的な挑発本でした。
このいわゆるヒッピー的な「反体制」的志向性をもったグリンダー氏が、ちょうど同じ志向性をもったビル ゲイツがヒッピー性の世界制覇をビジネスの世界で成し遂げたのと同じように、世界制覇を心理学の世界で成し遂げた、と私が見てしまうのは、あまりにもうがった見方でしょうか?
私は、個人的には、日本にカウンターカルチャーが根付かなかった大きな理由は、以上の三人のように、さまざまな分野において、気骨とガッツのある、革新性に富んだリーダーが生まれなかったことだと考えています。
このことに関連して、しばらく前に、あるテレビの番組で、元プロ野球選手で元参議院議員の江本孟紀氏 (彼自身団塊の世代です) が、団塊の世代の自己矛盾は、その前の世代が軍国主義から民主主義に一夜で転向したことを見てしまったためだったのではないかといった議論がされているときに、「団塊の世代は確かに『言行不一致』だった。彼らは、今後、退職してから死ぬまでに
10 年から 20 年の余生の人生があるが、その間に何らかの『落とし前』を取ってもらう必要がある」という意味のことを発言していました。
私は、個人的には、江本氏に同意します。このことについては、以下の私自身の文を再引用したいと思います。
「ひょっとしたら、私は、団塊の世代の人々が私に教えた、学生運動、ロック ミュージック、ドラッグ カルチャー、カウンター カルチャー、精神世界等に関連した生き方を、当の世代の人々は、その後企業に就職することで『アンフィニッシュド
ビジネス (未解決の問題)』として頭の片隅に残してきたままでいる一方で、『彼らにみごとに踊らされてしまった』私は、まさしく大江風に『遅れてきた青年』として、その後の人生で、すべて、実践、実験、体験してきた、という究極の逆説を示唆しているのかもしれません。(その意味で、私は、今後急増していく団塊の世代の退職者の方々に対して、彼らの求める最も適したライフ
コーチング (生き方のオリエンテーション) を提供できるという、絶対的自信をもっています。)」
非常に僭越な言い方になるかもしれませんが、団塊の世代の最善の落とし前の取り方として、まず、カウンターカルチャーの落とし子である現代心理学の
NLP を右脳的に学ばれて、その後その NLP が土台としている思想的潮流を、これも体験的に、遡及的にさかのぼっていくという方法が幸運にも存在している、と提案させていただきたいと思います。
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