バックナンバー

北岡泰典公式サイトはここで参照できます

Creativity Enhancement Ltd.
                          VOL.2 2007.7.2


           『北岡泰典メ−ルマガジン』


************************************************************************
精神世界の求道者・変性意識の学際的研究家・国内NLP第一人者である著者が、
スピリチュアルな世界・カウンターカルチャー等について縦横無尽に語ります。
************************************************************************


『私の人生について、その一』


皆さん、こんにちは。変性意識の学際的研究家・NLP ファシリテータの北岡泰典です。

本メルマガの創刊記念号等で、私は、次のように書きました。

「私は...自分自身を 40 年以上に渡る『変性意識の学際的研究家』と形容しています。その理由は、私が変性意識と初めて出会った 5 歳の頃に遡ります。ハンディキャップをもった子供たちを収容する施設で当時 5 歳の私は、他の子供たちから催眠にかけられるという非常に興味深い体験をもちました (この施設と催眠の体験については、別途本メルマガの今後の号で詳述することにします)。そして、それ以来ずっと、継続的に首尾一貫して『変性意識』に興味をもち、かつ、網羅的に徹底研究および体験的実験を続けてきている、という意味です。」

私がこれまでどのように変性意識に興味をもち、ほぼ全人生をかけてこの領域を体験的に研究してきたかを示すために、私の生い立ちをここに書いてみたいと思いました。


* 田辺の三大偉人

私は、1956 年 1 月に和歌山県田辺市に生まれました。この町は、紀伊地方南部の太平洋に面した人口 8 万 5 千人の町で、江戸時代、徳川御三家の紀州徳川家が治めた紀州藩の陪臣だった紀伊田辺藩の三万八千石城下町でした (田辺城は現存していません)。

田辺は、2004 年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された熊野三山への主要な参詣道である二つの道筋の分岐点にあたり、江戸中期には 1 日に 800 人の参詣人が宿泊したと言われています。

この町は、地理的な構造上、たとえば、江戸時代参勤交代の諸大名が移動したルートだった東海道や山陽道上に位置する市町村とは異なり、交通、貿易、文化交流等の影響をあまり受けない、文化的には非常に閉塞した町です。

この町は、武蔵坊弁慶が生まれた土地とされていて、町中に「弁慶の井戸」、「弁慶の腰掛石」、「弁慶松 (現在は現存していません)」といった弁慶縁の史跡が残っています。国内には弁慶の生誕地と見なされている土地が出雲地方を含め何ヶ所かあったようですが、1971 年に高さ 3 メートルの弁慶ブロンズ像が JR 駅前に立てられ、これにより、弁慶生誕の「既成事実化」が図られたようです。

この町は、弁慶の他にも、合気道創始者の植芝盛平が生まれ、南方熊楠が晩年居を構えた場所で、この三人は「田辺の三大偉人」と呼ばれているようです。

ちなみに、1969 年に 86 才で亡くなった植芝の以前の墓は、真言宗のお寺 (高山寺) の墓地にある私の家族の墓のまさに「真右隣」にありました。生前の私の祖母の話では、多くの西洋人の合気道の弟子がその墓参りに訪れていたそうです。植芝の墓はそれ以来、同じ墓地の中の少し離れた場所に移され、現在は大きな墓石が立っています。

このお寺の墓地には南方の墓もありますが、実は、それまでほとんど知られていなかった南方の業績が二十数年前から日本全体で正当に評価され始めたのは、私の高校時代の旧友でありこのお寺の住職だった方の地道なプロモーションによるところが大です。この方は、南方の業績を国内に広めるために、80年代、機関紙を発行したり、前衛舞踏家の土方巽の特別舞踏イベントを開催したりしていました。

このお寺に関して興味深い話は、瀬戸内晴美 (寂聴) の『遠い声』という小説にあります。これは、大逆事件で死刑となった幸徳秋水の内縁の妻で、同じく死刑になった菅野須賀子の伝記小説です。この中で、菅野は、社会主義者の荒畑寒村と駆け落ちして、田辺に移り住みます。
小説では、菅野は高山寺の住職に犯されたとありますが、この住職は、私の理解では、私の旧友の祖父のはずです。

このように、非常に閉塞した保守的な地域にもかかわらず、急進的左翼の人間も呼び寄せる田辺の構図は、後述するように、後年 1971 年にこの町で高校の学生運動の波が吹き荒れた事実とも重なり合うので、非常に興味深いです。


* 祖父について

私の家は、曾祖父が始めた商家です。私の父親については、特段語るべきことはないかと思うのですが、私にとって非常に興味深いのは、私の祖父です。

この人は、いわゆる「ボン ヴィヴァン (Bon Vivant)」(フランス語で「人生の享受者」を意味します) の人生を貫いた人で、やりたい放題の人生を送ったと私は理解しています。

私の家族の話によると、この人は、明治時代、南紀地方で初めてオートバイを乗り回した「ハイカラ」な人だったようで、また、当時の畑仕事用のリアカーの鉄製の車輪に国内で初めてゴム タイヤを装着するアイデアを考案し、さらに同じくリアカーのブレーキ システムを発明した人のようです。当時、これらの発明で特許を取得しなったようですが、取得していれば、おそらく億万長者になっていたのではないでしょうか?

また、遊郭にも足繁く通う明治気質の「ダンディー」人間で、三味線、尺八、書道、写真の分野では、その腕はまさしくプロ級以上でした。

私は、1979 年に初めて海外に出て (私の祖父は翌年の 1980 年に亡くなりました)、それ以来主にサハラ砂漠と欧米で「放浪」を続けましたが、その放浪中、常に、「私は、明治に生まれた私の祖父が現代 (20 世紀後半) に生きていたらおそらく歩んでいたであろう生き方をしているな」という意識をもち続けていました。

私の芸術的なテーストも、祖父の隔世遺伝を受け継いでいるかと思われます。


* 施設体験

私は、生後 4 ヶ月のときに脳性麻痺に罹りました。3 日間ほど 40 度の熱が続き、両目は上を向き白目だけになり、ひきつけが続き、医者は「この子は助からないだろう。助かっても痴呆症になるでしょう」と私の両親に言ったそうです。命が助かったのは、医者が脳圧を下げるために脊髄から髄液を抜くことを決断したからだそうですが、その後遺症として、左半身の麻痺症状が残りました。

この高熱の原因ですが、真偽のほどは別として、後年 1980 年代前半に、アメリカのオレゴン州で 7 ヶ月 1700 時間の心理療法コースに参加したときに行った「幼児退行催眠」セッションで、ばい菌に汚染された小さな黒い鼠が 4 ヶ月の赤ちゃんの私の体中を走り回っていて、私の唇にもその鼠が触れた視覚的および体感覚的「記憶」が呼び起こされました。

その後、私の人生を通じて左手と左足の筋肉麻痺をもち続けていますが、5 才のときに別の市にあった肢体不自由児収容施設に半年ばかり預けられました。このとき、父親の乗っている自転車の後に乗せられていた私が、「本当に施設に行ってもいい」いう父親の質問に「うん」と答えた記憶が残っています。

この施設は、精神薄弱児と肢体不自由児を収容する、西洋人のカトリック系修道女が運営する施設でした。

この施設で、私は幼児性愛に関連した「トラウマ的体験」をもちました。後年、いろいろな人々からカトリック系の慈善団体の組織では、歴史的にいろいろな問題が起こってきていることを聞きました。

今号のメルマガの冒頭で「ハンディキャップをもった子供たちを収容する施設で当時 5 歳の私は、他の子供たちから催眠にかけられるという非常に興味深い体験をもちました」とありますが、この催眠体験をしたのがこの施設です。

このとき、私は、椅子に座って、数人の子供たちに囲まれていました。一人の子供が「今羊が一頭通っています。二頭目が通っています。三頭目が通っています...」と「催眠誘導」を始め、私が何十頭かを数えた時点で、この子供は私に「今あなたは椅子から立ち上がります」と暗示を告げましたが、私は立ち上がりませんでした。このとき子供たち全員が私を嘲り笑ったのですが、この体験も私のトラウマとなりました。

もう一つの変性意識体験は、各「病棟」には十字架に釘付けされたキリスト像が壁にかけられていて、夜中皆が寝静まっているときに目を覚ますと、窓の外を通る自動車のヘッドライトの反映がこのキリスト像に当たり、緑、黄、赤等の光の影が妖艶に動き続ける光景でした。非常に気味悪く感じたことを記憶しています。

ところで、修道女は英語をしゃべりましたし、病棟には A、B、C、D、E といったアルファベットの名前がついていていました。また、食事の際は、食べる前に「父と子と精霊との御名によりてアーメン」と言いながら十字を切らされました。このような体験が私と英語もしくは英語圏の文化との最初の出会いとなりました。

確かに、この施設では、リハビリのような課題は私に課せられたように記憶していますが、親元から離されてまで入所する必要があったのかどうか、
私にはいまだに不明です。

約 6 ヶ月の施設体験後、親元に戻り、普通の小学校に 1 年生として復学しました。その後は普通の生活を送った記憶がありますが、4 年生の秋に田辺市の近郊に新しく精神薄弱児と肢体不自由児を収容する療育園が開設されることになり、再び施設に入所しました。この施設には小学校卒業時までいました。

この入園の目的は、左足の萎縮したアキレス腱を伸ばすための手術を受けるというものだったので、それなりの意味はありましたが、ここでも幼児性愛に関連した極度のトラウマ的体験をいくつかもちました。

この手術の麻酔体験も変性意識的に興味のあるものでしたが、この観点から一番興味深かったのは、この施設にいわゆる「ガキ大将」がいて、その少年があるとき、私も入っていた「子分グループ」に「夜中の 2 時に起こせ」と言われ、我々がその時間に彼を起こして、話をし、その後彼はまた寝たので、我々も病棟のベッドに戻った後、翌朝、彼に「なぜ起こさなかったのか」とこっぴどく怒られたことでした。このとき私は初めて、夢遊病者を目にしたのでした。

あるとき、夜中に隣接する小学校の校舎が火事になり、子供たちは目を覚まして全焼するのを目の当たりに見たとき、この少年も起き上がって火事を見ていましたが、このときも、翌朝彼は何も覚えていない、と言っていました。

この施設は、小学校卒業時に離れましたが、さまざまなトラウマ体験のためにその後の社会適応は非常に困難に思えました。実際、中学、高校、予備校、大学時代を通じてずっと、私は、「境界線症」とでも呼ぶべき非常に生きづらい、出口のない「蟻地獄」のような人生に落ち込んでいましたが、その後、サハラ砂漠での瞑想を含めて、主に欧米で、精神主義的修行、現代心理療法、催眠、化学的に誘発された変性意識、その他ありとあらゆる方法を約二十年間模索し続けましたが、これらの二度の施設体験の際に被った極度の「精神的外傷」を完全根絶することを可能にさせたのは、唯一 NLP であったことは、私のもう一つのメルマガ「これが本物の NLP だ!」や実際の私の NLP ワークの中で、何度か示唆してきていることです。

ちなみに、約 10 年後に、この施設を再訪する機会がありましたが、入園当時にもいた理学療法士に再会したとき、この方から「君には本当に申し訳ないことをした。10 年前、我々は、開園当初で何も知らなかったので、ごく軽度の症状をもつ君を入園させてしまったが、その後の経験で君のような場合は絶対に入園させてはいけないことがわかった。悪いことをした。許してくれ」と言われ、文字通り愕然としました。要は、私は無知な人々のモルモット実験の対象だったというわけでした。


* 中学校時代

実は、私は、この施設にいる間、ほとんど正規の小学校の授業を受けずに卒業していたので、普通の中学校に戻ったとき、まともに授業についていけるか、という問題がありました。

それに輪をかけるように中学入学直後、私は、「自家中毒症」を患い、数週間病院に入院し、毎日何本ものブドウ糖点滴注射治療を受けました。医者からは、この歳になって自家中毒になるのは非常に珍しいと言われました。

退院後中学生活に戻りましたが、これだけの空白の学習期間があったにもかかわらず、特に英語と数学の成績はトップレベルを続け、3 年生の時には全学年期末テストで全体で 3 番の成績を取ったこともあります。結論としては、長期の学習の空白期間は、私の場合は、大きな否定的影響を生み出さなかったということになります。ただし、最大のマイナス点としては、小学校 5、6 年生時に学ぶ漢字の能力が著しく欠けていたという記憶があります。

中学校時代の変性意識体験としては、3 年生頃、友人の家にあった EP レコードを聞かせてもらうことで、西洋のポップ ミュージックに目覚める機会をもてたということがありました。この友人が所有していたレコードの種類は、確か、ピーター・ポール & マリーの曲とか「夢のカリフォルニア」といったジャンルのイージー ポップでした。その後高校になってロック ミュージックに進む下地がこのときできあがりました。この友人とは最近再会しましたが、中年になった後は、日本の歌謡曲しか聴いていないということでした。

また、どういうわけか、私は「不良グループ」の一員にもなり、鎮静剤やアンパン (シンナー吸引) も試みましたが、特にシンナーによる特異な変性意識体験は、通常意識は絶対的なものではなく、相対的なものであることを実体験させるものでした。

今思うに、当時は、1970 年前後で、欧米ではヒッピー文化が定着し、カウンターカルチャーの波が押し寄せてきていた時期で、たとえば、アメリカの中高生であれば、当時、皆、普通に大麻を吸引し始める雰囲気があったので、私のこの興味は、そのような文化的潮流を無意識的にキャッチして、大麻のかわりに国内で入手できた手段を代替使用したのかもしれません。


* 高校時代

私は、中学時代の不良体験にもかかわらず、地方の進学校の高校に入学しました。私は、常々、変性意識、ミュージック、アート、瞑想、催眠、NLP 等に関する私の青春以降の興味と方向性はすべて、私が高校 1、2 年だった頃までにすべて決定づけられたと考えてきています。私の世界地図は、すべて、1972 年頃までに、すなわち、16 歳頃までに形成されていて、その後何の新しい要素も加わっていない、と言い切ることもできるくらいです。

高校入学と同時に、まず、高校紛争の中に巻き込まれました。これは、時代的に言っても、1968 年の安田講堂事件の余波が、1969 年に大阪まで達し、1970 年に和歌山市で学生紛争が起こり、1971 年にその波が田辺に押し寄せたと見れば、合点がいきます。

1 学期から毎日のように生徒と教職員が出席する「臨時総会」が開かれ、教職員が「吊るし上げ」をくらうという日々が続きました。学生服廃止を主張する一部の生徒は私服で登校してきていました。

そういう学生運動のさなかに、私は校内の運動拠点の一つだった文芸部の一員となりました。このまわりには、イッピー (青年国際党活動家) のジェリー ルービン著の『Do It! (やっちまえ)』に触発された「アナーキスト」が何人かいて、この当時この田舎にしては考えられない「アンデパンダン展 (独立展)」などを開いて、マルセル デュシャン、アンディー ウォーホール、ジャクソン ポーラック系の「シュール」な
アート作品を展示したりしてもいました。

この仲間を通じて、私は、ロック ミュージックに開眼しました。当時亡くなったジャニス ジョップリンを聴く追悼ミュージック イベント等に参加しましたし、私が非常に感化されたアメリカの学園紛争を題材にした映画「いちご白書」(1970年) では、主人公を演じたキム ダービー以上に、この映画のサントラになっているニール ヤングの「ダウン バイ ザ リバー」、「ローナー」、「ヘルプレス」等の曲に、文字通り衝撃を受けました。

ちなみに、1969 年のデビュー アルバムから 1970 年の「アフター ザ ゴールド ラッシュ」までの 3 枚のアルバムが私にとっての「ニール ヤングのすべて」で、彼を国際的にブレークさせた 1972 年の「ハーヴェスト」以降の音楽性は、(1、2 曲を例外として) 私にとってはどうでもいいのですが、このことをニール ヤングのファンに伝えると、通常は非常に驚かれます。

もう一つ私の青春の原点となった映画は、1969 年制作の「モア」です。サントラはピンク フロイドで、ヒッチハイクの旅に出たドイツ青年が、パリで、ミムジー ファーマー演じるアメリカ人女性と出会い、セックスとドラッグの自由奔放な生活におぼれ、地中海のイビザ島でヘロインのオーバードーズで亡くなってしまうストーリーです。この映画で、イビザ島が「ヒッピーのメッカ」になるのですが、後年、私は 1980 年代に 2 度ばかりこの島を訪れましたが、家族連れの観光客ばかりの島になっていて、ヒッピー文化は「風化」していました。

変性意識的には、私は、このアナーキー グループにアンパンを逆に教えました。彼らもこの体験を興味深いと見ていたようでした。

また、当時、私は、アングラ雑誌 (「ミュージック ライフ」だったと思います) を購読していて、確かニール ヤングのイラストが表紙を飾っていていた号で、リチャード アルパート (60 年代に LSD の実験後、ティモシー リアリーとともにハーバード大学を追放された心理学者。リアリーの
『チベットの死者の書 - サイケデリック バージョン』の共著者で、後のラムダス) がインドの導師のもとに行ったとき、そのグルから「今あなたが隠し持っているものを知っているので、それを出すように」と言われ、このグルをテストするために密かに持参していた、通常の摂取量の 10 倍ほどの量の LSD の錠剤をグルに手渡したとき、このグルは、それをすべて摂取しても何の変化も示さなかった、といった掲載記事を読んだとき、私には将来インド人導師に弟子入りしたいという願望が生まれました。この願望は、後に、1983 年にアメリカ オレゴン州でのバグワン シュリ ラジニーシへの弟子入りという形で実現することになります。(このことについては、本メルマガの今後の号で詳述します。)

ちなみに、私は、その後、リチャート アルパートの導師がこれだけの量の LSD を摂取した後、自分の弟子だけになったとき「あれはかなりやばかった。あれだけの量の LSD を飲んで、正常な振る舞いの演技
をするのに非常に難儀した」と言ったという後日譚を聞きましたが、この裏話を知ってぶっ飛んでしまう (失望してしまう) 精神世界系の人々も多いはずです。

もう一点、この時期、私のその後の方向性を決定づけたのは大江健三郎です。彼の『日常生活の冒険』を読んで、一年間高校を休学して、ミクロネシアまで行ってしまった上級生を個人的に知っていますし、彼の『個人的な体験』、『空の怪物アグイー』、(ノーベル賞受賞対象となった)『万延元年のフットボール』などの世界には、底なし沼のように引き込まれてしまいました。彼の翻訳調の文体には、私は多大な影響を受けていますし、その後大学は仏文科を専攻しようと思った理由は、彼が東大の仏文を卒業していたこと以外の何ものでもないです。

おそらく大江の作品で一番私が影響を受けたのは、やはり、『日常生活の冒険』です。この小説では、登場人物の卑弥
子も興味深いと思いましたが、冒頭でアフリカ北海岸の小都市で自殺したことが報告される斉木犀吉にはかなり影響を受けています。

すなわち、犀吉は、単語帳のようなものをいつももっていて、どのような哲学的な質問をされてもそれを見ながら即座に答えられる青年ですが、私も、後年、そのような人間になろうとした嫌いがあります。(この斉木犀吉のモデルは、大江の義理の兄である伊丹十三であることは、いつ最近知った次第です。)

また、この小説は、アフリカ北海岸の記述もあり、後半部では、主人公たちがロンドン、パリに赴くのですが、このような場所と地域に、私は、後年実際に住むことになります。

大江のもう一作、初期作品の『芽むしり仔撃ち』は、山の中という、ある閉ざされた空間に閉じ込められた子供たちの疎外感とその経験をみごとに象徴的に描写していますが、この描写は、私が実際にもった子供の頃の施設体験の雰囲気を如実に表しています。

ちなみに、私は、大学時代、弟子入りしたいと大江に申し出ましたが、「弟子は取りません」と断られました。

大江の場合も、私が評価できるのは、せいぜい 1973 年の『洪水はわが魂に及び』までで、その後の 1977 年の『ピンチランナー調書』以後の彼の本は読んでいません。

このように、文学的にも、音楽的にも、文化的にも、政治的にも、私の方向性は、高校 2 年くらいまでにすべて決定づけられました。この時期までに影響された文化的要因を、その後のサハラ砂漠と欧米での「放浪」
の中で、ほぼすべて完全実現していくことになります。この辺は、ひょっとしたら、私は、団塊の世代の人々が私に教えた、学生運動、ロック ミュージック、ドラッグ カルチャー、カウンター カルチャー、精神世界等に関連した生き方を、当の世代の人々は、その後企業に就職することで「アンフィニッシュド ビジネス (未解決の問題)」として頭の片隅に残してきたままでいる一方で、「彼らにみごとに踊らされてしまった」私は、まさしく大江風に「遅れてきた青年」として、その後の人生で、すべて、実践、実験、体験してきた、という究極の逆説を示唆しているのかもしれません。(その意味で、私は、今後急増していく団塊の世代の退職者の方々に対して、彼らの求める最も適したライフ コーチング (生き方のオリエンテーション) を提供できるという、絶対的自信をもっています。)

ところで、高校時代、変性意識に関連した興味深い体験を、二、三もちました。一つ目は、上記の中学時代ポップ ミュージックを私に教えてくれた友人は、中学のときにサッカーのキーパーができるように私をトレーニングしてくれたのですが、高校生になっても、昼休み時等に生徒がサッカーの試合をしている際ときどき私はキーパーをしましたが、あるとき、フォワードの選手と激突して、脳震盪を起こしました。その後、社会科の授業に戻りましたが、このときの先生がその後 20 分間何を喋るかがすべて予めわかってしまい、実際この先生が一字一句違わずにその通り話したことには仰天しました。

また、体育の授業でハードル跳びをしているときに、ハードルに引っかかり、転倒し、このときも頭を強打しました。その後側で座って休んでいたのですが、時間と空間がまるでエッシャーの絵のようにワープして、自分を外から見ている自分に気づいたりして、いったい自分がどこにいるのかわからなくなるような体験をしました。

以上の二つの変性意識体験は、それぞれ「未来予知」と「幽体離脱」の (超能力) 現象と定義できるものと思われます。

ちなみに、本号のメルマガの結論として言うと、NLP はもともと、時代的には、60 年代の左翼的学生運動 (イッピー等)、フラワー チルドレン (ヒッピー)、 サンフランシスコのヘイト アシュベリー地区を中心とした 1967 年の「サマー オブ ラブ」現象、ロック (特にカリフォルニア ベースのグレイトフル デッド等)、カウンターカルチャー、インド的精神主義、現代心理療法、等の、特に西海岸の文化的背景をもとにしてしか誕生することは絶対不可能でしたが、遠く極東の島に住んでいた私が、おそらく、5 年、10 年程度遅れてこのような文化的ムーブメントの洗礼を直接的に受け、結果的に、最終的に、1988 年に (英国ロンドンで) NLP に出会ったのは、いわば「必然的結果」だったと言えるのかもしれません。

このような私の人生上決定的と思われる諸々の体験の後、高校卒業と同時に田辺を離れ、東京の予備校に 2 年間通いました。二浪の後、都内の大学に入学しますが、この間の話は、本メルマガの次号以降で詳述したいと思います。

(注: 本ページでは、当初マグマグで発信されたオリジナルのメルマガ内容の告知情報部分を割愛しています。)

----------------------------------------------------------------------
以上、本号のメルマガはいかかでしたでしょうか?
ご質問やご意見がございましたら、info@guhen.com までお寄せく
ださい。

本メルマガのバックナンバーは、以下のサイトで閲覧可能です。
http://www.creativity.co.uk/creativity/jp/kitaoka/

北岡泰典のメルマガ『これが本物の NLP だ!』は、以下で参照可能です。
http://www.creativity.co.uk/creativity/jp/magazine/backnumbers/


北岡泰典公式サイトは以下でアクセス可能です。
http://www.kitaokataiten.com/

北岡泰典メ−ルマガジン
発行システム:『まぐまぐ!』:http://www.mag2.com/
配信中止はこちら:http://www.mag2.com/m/0000236598.html
----------------------------------------------------------------------

本誌の無断転載は禁止されています。
(c) Copyright 2007, Creativity Enhancement Ltd. & Taiten Kitaoka.
All rights reserved.